はじめに
「臓器摘出時に『脳死』患者が動くって本当ですか?」という題でお話しさせて頂きます。話の前半で、「脳死」患者はどのように動くのか、そして今の神経科学ではその動きがどう説明されているか、などについて、「脳死」が発見・発明されて約30年あまり経った現在での医学的なお話をします。
後半で「脳死」問題の背後にある思想にふれます。「脳死」患者が生きているのであれば人間としての権利がありますが、死んでいるのであれば基本的人権もない単なる物となりますから、法的にみてまったく違う立場に置かれることになります。このように「脳死」は医学的な概念としてだけ考えることはできません。社会的、政治的、文化的に「脳死」という思想がどういう役割を今まで担ってきたか、ということにも目� �向ける必要があります。
医学的な概念であるかのように思われている「脳死」の定義が国によって何故違っているのでしょうか。また、動いている患者であっても"死んだことにしよう"という、おかしな方向へ20世紀の後半の医学がなぜ進んできたのでしょうか。その方向性に向かうなかで、臓器移植がどんな役割を果たしてきたのでしょうか。こんなことを考えてみます。
自発的運動と反射的運動
人間が動く時は自発的に自分の意思で動く場合と、膝頭を叩くと足がポンと上がるように反射で動く場合があります。自分の意志によらない反射の場合は、必ずしも脳が無くても起こります。ただし、反射の中には脳幹反射といって脳、特に延髄のような脳の下の方の部分が必要な反射もあります。たとえば、「脳死」判定で全脳死といっ ているのは「首から上の大脳も脳幹も延髄もすべての脳細胞の働きが、検査できる限 りでは機能が無くなっている」という状態です。ですから、この脳幹反射があれば、「脳死」ではないということになります。日本での「脳死」患者からの臓器移植の第9例目の臓器摘出では(第1回の臨床的脳死判定から臓器摘出前日まで)咽喉に何かを突っ込むとゲーという咳反射があったということは、延髄が働いていることを意味 しています。これは初歩的なミスですし、「脳死」とは呼べない状態です。その時点で意識があるのかそれとも無いのかは、今の医学では確実には分かりません。
これは「脳死」判定に際して無くなっていなくてはならない脳幹反射の例です。これに対して膝頭を叩くと足が跳ね上がるような反射は脊髄反射なので、理屈では「脳 死」状態でもあってもおかしくないとされています。ニワトリなら首を切ってもしば らく歩き回るとかいわれますよね。「脳死患者が動く」ことの理屈は、この脊髄反射で複雑な動きをする場合があるためとされています。
ちょっと細かいことになりますが、それでは脊髄反射は「脊髄だけが制御していて、大脳とか意思の力が全然関係がないか」というと、実はそうでもありません。歯をグッと噛んだり、注意を他のところに反らしてから膝頭を叩くと、ものすごく足が大きく跳ね上がることが分かっています。普通だとちょっとしか挙がりませんが、こう いう方法をすると大きく挙がります。専門用語ではジャンドレシックの方法といいますが、こうして大脳の働きや意思の力によって脊髄反射が大きく変わることが知られています。脊髄反射だからといって「機械的なもの、ロボットのようなものとか、首を切ったニワトリが歩いているようなもの」というわけではありません。「脊髄反射だから大脳機能、意思に関係がない」かどうかという点は、研究すればするほど分からなくなるのが実態です。
しかし脳死判定をする時には「脊髄の反射は(興奮が脊髄から折り返しているから)脳とは関係が無い」という非常に単純化した理屈で、「咽喉をつつくと咳が出るのは延髄反射だから生きている」と、「手足をつねって手がピクッと動くのは、脳は関係無い脊髄反射だろうから、脳が生きているかどうかとは関係ない」と言っています が、必ずしもそのような単純なものではない可能性もあります。脳の研究ではまだまだ分からないことが非常に多いのです。脳死判定ハンドブックなどは手引き書なのでものすごく分かっているように書いていますが、実際には分からないことでも理詰めで分かりやすく単純化して書いているきらいがあります。
「脳死」患者の動きとはどんなものか
「脳死」患者がどの程度どんな動きをするのかというお話に入ります。資料にお配りした連続写真(左の写真をクリックすると大画面で見れます)ですが、頭部外傷の11ヶ月の赤ちゃん、臨床的には「脳死」の基準を満たしています、と説明があります。右上・上段の写真では腕が伸びていますが、右上・下段の写真になって、医者がお腹のあたりを触ると腕が伸びます。腕が伸びた姿 勢は脳幹が生きているしるしとされていますが、臨床的には脳死の基準を満たしてい ます、という点が珍しいので報告されています。この子の場合は11ヶ月という年齢の問題も「脳死」判定を難しくしてい原因としてあるのかもしれません。
下の写真は同じ赤ちゃんで、時計廻りで見ます。赤ちゃんの手のひらを指で擦ると、指を掴むのです。英文でbrain-dead heart-beating cadaverつまり脳が死んで心臓は動いている死体、と書いています。けれども、11ヶ月の赤ちゃんが指を掴むのをみて平然と「死体」というのは、なかなか凄いセンスだと思いませんか。「何度も手のひらを擦ってまったく同じ掴み方したら反射であって、本人が面白がって掴んでいるのではないだろう。反射だからロボットや機械と同じで毎回まったく同じ掴み方をする。 本人に意識があって面白がって掴んでいるなら、途中で面倒臭がって掴むのを止めた り、別の掴みかたをするだろう」というのが、反射が自分の意志による運動かを判断する基準です。指を掴む赤ちゃんを死体と呼ぶのには抵抗がありませんか。これは、 これまでに400人くらい「脳死」患者を看てきた施設で、最近経験した例として NEUROLOGY(2000年2月号)という神経内科の雑誌に報告されています。
1970年代から80年代、つまり20年くらい前に「脳死」者が動いた例がたく さん報告されています。「脳死」患者を死体と見なす立場の人たちはよく、当時の診断術が万全ではなかったからかもしれないという趣旨のことをいいます。たしかに 、必ずしも、これらの例は現在の「脳死」判定基準を厳密に満たしているとは言えな いこともあります。しかし、現在「脳死」と判定している例が厳密に判定基準を満た しているかというと、やはり同じように疑問があって、実際には20年前と五十歩百歩 なのではないでしょうか。どんなに医療・検査機械が進歩しても、その機械を正確に使いこなせるか、そして誠意をもって診断しているかは、診断基準が厳密かどうかとは別問題です。日本での法的「脳死」判定の8例目、9例目で問題になったように、 今でも「脳死」判定基準が満たされているかどうかはあいまいなことが多いわけですから、ちゃんと文章になって証拠が残っている20年前の「脳死」判定の方が、よほど情報公開されていて信頼できるのかもしれません。
グラン·コロンビアは何でしたか?
ちょっと話が違う方向にずれてしまいましたが、この70年代というのが一つのポ イントです。1968年ぐらいから心臓移植を始めたので重度の脳障害患者は死体と同じという考え方が一部の欧米の国で広がりました。こうして「脳死」という考え方 が発明されてから4〜5年たってみると、『死体なのに動く』ことがわかってきたわけです。およそ7〜8割の「脳死」患者が動くことが知られています。それは脊髄反射のこともあれば、膝を立てたり、手と足を曲げてみたり、足指を順番に波打つように曲げる動きをすることもあります。1973年にイバンIvanという人は52人の脳 死患者の反射を調べたところ75%、4人のうち3人が死体なのに動いた。ヨルゲンセンJorgensenという人も63人の反射を調べたら79%が動いた。ということで7 〜8割は何らかの動きをした、3人に1人は複雑な動きをしたと報告しています。
「脳死」患者が自分から動く!
これらは脊髄反射なので「突っついたら動いた」という感じなのですが、1980 年代、「脳死」が発明されてから十数年たつと、「反射ではなくて勝手に動いた」=脊髄自動反射という報告が出てきます。こうした自発的な動きなのに、自動反射などと名前を付けるのも変な話ですが、この種の運動は人工呼吸器をはずしたときによく起きるもののようです。では、なぜ脳障害患者の命綱であるはずの人工呼吸器を外すような状態が出てきたのでしょうか?きっかけになったのは「無呼吸テスト」という 検査があらわれたことです。「脳死」をできるだけ効率的に早く診断するために、本当に自分で息をすることができるかどうかを調べるための「無呼吸テスト」が行われ るようになったからです。手がフニャッと上がってくる、場合によっては上体が起き上がってくるような動きをします。見ようによっては「人工呼吸器の管を盗っていく な!」という感じで動きます。
1984年に最初に報告したロッパーRopperは脳死患者60人を調べて、5人(8.3%)に脊髄自動反射があった。1人は無呼吸テスト をやっている時に出てきた。4人は無呼吸テストが終わって脳死判定後、人工呼吸器を外して死ぬにまかせた時に、4〜8分してから手が伸びて肘で曲がってガクガクガ クとゆっくり動く、そしてちょっと曲がって内側まで来た。そして元に戻ると論文に書いています。普通は、脳に血液や酸素が行かなくなった場合に、後遺症が少なく救命ができるのは数分とか言われますから、「4〜8分して動く」というのは非常に長 いですね。2000年にシャポシニックSaposnikは38人の「脳死」患者のうち14 人(36.8%)が「動く」、なかには72時間以上続いたと報告しています。「脳 死」という死の判定をしてから3日以上、いろんな動きを続けるというのは常識に反することなのですけど。どういうつもりなのでしょう。「脳死」からの臓器移植を推 進する方は、ご家族に「死体にはなっていますが、3日間動き続けることもあります」と正確な説明をしてインフォームドコンセントを得て、理解した上での納得を得る ことができるものでしょうか。
ラザロ徴候とその背景
人工呼吸器を外した後に、脳死患者が両手を胸の前に持ってくる動きをみせること を、1984年に"ラザロ徴候"とRopperが名付けました。Ropperの論文の結論に「 こうした観察結果が実際の診療で重要である理由は、次のことである。一つは脳死患者から人工呼吸器を外す場合には、家族をその病室から出しておかなければならない 。そうしないと予想外の恐れやストレスを与えることになる。私たちの経験では、その患者の死体を死体置き場に運ぼうとした看護婦が、患者が動いたために非常に恐れて怯えた、ということを経験した。だから、こういうことが起き得ることを教えてお かなければならない」と書いています。そのままに読む限りでは、要するに「ご臨終 の際に家族は病室に入れるな」という意味に思えます。1984年の論文ですから2 0年余り前から、こういう事実は救急・移植医療関係者には知られていたのだけれども、それを隠蔽するために「人工呼吸器を外す時に家族は病室から出しておこう」と隠していた事がはっきりとわかります。"公開・オープン"の原則には、まったく反することが20年余りにわたって行われているわけです。
ラザロ徴候の実例を不随意運動の雑誌「ムーブメント・ディスオーダー」(Movemrnt Disorders)の付録のビデ オでお見せします(右の写真をクリック)。これは、アルゼンチンでの「脳死」患者で、平坦脳波などアメリ カ脳波学会の「脳死」判定基準は満たしています。首を曲げると手を前に持ってくる とか、そのほか色んな動きをしています。「脳死」という状態がこういう状態である、という事実を知っている人ならば、臓器提供をするには、かなり抵抗があるでしょう 。このビデオだけ見せられれば「死体」と思う人は一人もいないでしょう。
「ラザロ徴候」というのは一つの言葉、医学専門用語であって、「脳死状態の患者 にこれこれのことをすると『自動的に』こういう動きをする」という医学知識をあらわしています。日本の生命倫理学者の中にはこのラザロ徴候の例を挙げて、「脳死」 のことはまだまだよくわからないのだから厳しい判定基準が必要だという趣旨の議論をする方もいるようです。でも、こうした机上の空論には違和感があります。まるで 「脳死」患者を実験台にして医学知識を進歩させるべきだという風に聞こえかねないからです。むしろ、「ラザロ徴候」を単純に医学的知識とみなしてしまうことこそ考え直さなくてはならないのでしょうか?いままでのお話でおわかり頂けたかと思いますが、ラザロ徴候などということがらは、「脳死」患者に無呼吸テストをしたり、人工呼吸器をはずしたりするような社会やそんな時代にだけしか存在しないのです。一見は中立的に見える医学的知識のバックにある"医療のありかた"を考えると、問題が見えてくる気がします。
慢性的「脳死」とは?
ハーバード大学で「不可逆性昏睡」、つまり昏睡状態になって意識が戻らない状態 を「脳死」と呼ぶことを発明して約30年がたち、沢山の論文が発表されました。その12,000本の論文から、"何年ぐらい脳死状態を続けることができるか"、つ まり「脳死」状態から心循環系死(心停止)になるまでの期間はどれくらいかをシューモンShewmonという学者が調べました。これは1998年に神経内科では世界で最も有名な学術雑誌「神経学」NEUROLOGYに発表され、興味深い論文として編集者が特別に論説を書いています。その題がまたふるっていて「もはや死者でさえも、末期患者ではない」というものです。何故か、と言うと脳死状態で最高14年間生きていた ことが報告されているからです。臓器移植のドナーにして心臓を取り出せば、もちろん一日で殺されてしまいますから、「脳死」状態で治療の対象とした例だけを調査しています。1週間はほぼ全例、1ヶ月で約60%、1年で約20%生きています。心停止まで10年というケースも数%います。
脳死状態となってから1週間以上生存した患者の生存率
1ヶ月 3ヶ月 6ヶ月 1年 2年 5年 10年
59% 41% 32% 19% 13% 13% 8%
歴史的なメーカーは何ですか
ここから分かることは、今まで「脳死患者に治療を多少やっても、心停止まで数日」と言われていたのは端的に誤りであって、それは救命する気がなかった、あるいは臓器提供用に「死体」として利用してしまったのかどちらかだったということです。 それに対して、なんとか治療すれば1ヶ月とか1年という生存率になります。ここで 「もはや死者でさえも、末期患者ではない」という論説の題が効いてきます。普通、末期患者というのはガンなどの病気で余命が3カ月とか6カ月の患者をいうことに決められています。これに対して、シューモンの調査では3から6ヶ月以上生きている 「脳死」患者は30%くらいです。アメリカでは「脳死」患者は定義上は死者のはずなんですが、「死者の3分の1は末期患者ではない、それどころか末期患者よりも長く生きるかもしれない」という非常に不思議なことになってきます。
だから慢性的「脳死」患者とシューモンは呼んでいるわけです。「脳死」患者であっても、治療をちゃんとやれば3分の1くらいは慢性的患者になります。ここから「『 脳死』患者といえども心臓がすぐ止まるわけではない」ということが判ります。でも 、もう一つ重要なことは「脳が生命の中心と思っていたけれども、それほど絶対的な中心ではなかった。人間の体で脳だけが大事な訳では無い」ということが見て取れるということです。
脳は生命の中心ではない?
今まで「脳死は死である」と信じている人達が、その証拠に挙げてきたことには次のようなことがあります。ひとつは、「脳は考えたりする意識の中心だから、意識の無い人やIQ(知能指数)の非常に低い人は、自己意識がないのだから生命はあって も人間としては死んでいるといっても構わない」という考え方です。この無茶な考えの問題点はあとでもう一度検討しましょう。もうちょっとマイルドな立場では「脳は人体を支配・命令してホルモンを分泌するような統合の働きをする臓器なので、脳 が働かなくなると『脳死』患者のように3〜4日で死んでしまう。だから、脳は知的能力の中心であるだけでなく、生命の中心でもある。心臓も生命の中心だから心臓がやられたら心臓死というように、脳も生命の中心としての働きがあるから『脳機能不全』を死と呼んでも構わない。」という理屈を言っていました。
ところがシューモンさんの慢性的「脳死」と言う考え方が意味していることは「脳 の働きが多少、悪くなって『脳死』状態になっても、何ヶ月も生きていられる。脳が 生命の中心と思っていたけれども、それほど中心ではなかった。生命とはネットワークみたいなもので、どこか一カ所がやられたから必ず致命的になるわけではない。脳だけが特別に大事なわけではない、ということをはっきりと示した」ことなのです。
質疑応答
- 質問=「脳死」状態でも、1年たって2割近くの人が生きているのというのは、治療をしているでしょうか。回復が期待できない場合でも、家族の希望で命を永らえる方向になるのですが、その後がもう無いわけです。例えば貧血になったときに輸血を していいのか。献血をしてくれた人は助けるために献血してくれたということを考える必要があります。医局で「この人に輸血をしていいだろうか」と議論になったことがあります。
- 朝日=1年以上生存のケースレポートのうち、7例は特に積極的な治療はしないで 、そのうち5人は病院ではなくナーシングホームとか家で看ていたようです。5人全員ともベビーA、ベビーZなどの仮名ですので子供だったようです。
- 質問=そういう子供さんの場合は、親が「生きている限りは生きさせたい」と思うからわかります。当然、成長しますね。
- 会場から=シューモンさんの講演を聞いたんですが、10何歳まで生きていた子供のビデオで、体は成長していましたし、音のする方向に顔を向けていました。看護婦さんが家に引き取って看ていました。
- 朝日=1年以上の生存者は、ほとんど35歳以下の若い患者さんです。35歳以上の患者は、ほとんど1ヶ月以内に心停止しています。論文には「脳死」の原因になったもとの疾患も詳しく書いていますが、一番、大きく余命に効いてくるのは年齢です。
- 質問=麻酔科医が「脳死体から臓器を切り取る時に、血圧が急上昇したので麻酔をかけた。血圧急上昇は脊髄反射だ」と説明していますが、この説明どおりに受け取っ ていいのでしょうか。血圧が急上昇した理由は、脊髄反射の場合もあるでしょうが、本当は意識があってメスを刺され痛くて怖くて逃げ出したくて血圧が上がった場合もあるでしょうが、区別はつくでしょうか。
- 朝日=判らないでしょう。動くとか嫌がって逃げるとかすればもちろん判りますが 、そうでない限りはわかりません。何で血圧が上がるのに、血圧を下げる薬物でなく、中枢神経に働く麻酔薬を使うのか、という医学的意味が判りません。脊髄反射があって動くから筋弛緩剤と麻酔薬を同時に使うのならば、まだその意味がわかりますが。何で麻酔薬を血圧を下げる目的に使うのか。人工呼吸器をつけているから、そこからガスによる吸入麻酔をかけ易い、というのはあるでしょう。でも、点滴もしているわけですから、血圧を下げる効果のある薬物を注射しても構わないのではないでしょ うか。麻酔薬でどれ位、血圧が下がるかは麻酔医がよく知っているから、コントロー ルし易いということでしょうか。
- 質問=麻酔で血圧が下がるのは、意識を無くして血圧を下げたのか、それとも意識が無くとも麻酔で下がるのか。
- 朝日=どちらとも考えられるので、どちらとも言えないのではないですかね。
- 質問=法的脳死判定マニュアルに深昏睡の確認方法として「疼痛刺激を顔面に加える。反射が認められた場合は、誘発したと思われるのと同じ刺激を加え、同じ反射が誘発されれば脊髄自動反射と判断する」とありますが、このマニュアルにある診断方法は正しいのか。意識があり痛がって動いているのと反射と、区別ができるのか。同 じ刺激を与えて同じ反応があった現象の再現性をもって、脊髄自動反射と判断できるのか。
- 朝日=「そういう決め事だ」、というだけです。臨床の現場での科学的な裏付けとは、その程度のものです。普通に意志的に嫌がってるんであれば、色んな動きをするで しょうが、毎回、機械的にまったく同じ動きをして、しかもその動きが今までに反射として知られている動きであれば「反射だろう」と診断します。
- 質問=痛いけれども毎回、同じ動きしかできない、ということも有り得ますね。
- 朝日=それはありますね。所詮、人間がやる診察ですから、間違うこともあります (笑)。だからこそ、検査機器が発達したわけです。
- 質問=神経内科医の古川さんが「脳死ではなく心臓死直後に臓器が摘出されても、その時点で脊髄が生きていて痛みを感じるのではないか」と言われていましたが。
- 朝日=痛みはどこで感じるか判らないことなので、判らない、としか言えません。 ただ、脊髄で感じているという説の人は少ないと思います。大脳皮質ではなく、その中にある視床で感じている説の人は多いでしょう。痛い!という感じも含めて感覚という研究分野は、他の人が何を感じているかは正確には判らないため、研究上の方法 での限界があります。
痛みはどこで感じるか?
「脳死」状態の患者は動いたりするし、ひょっとしたら痛みが分かるかもしれない という考え方があります。「脳死患者に痛みが分かるかもしれない」というのは、そ もそも原理的というか哲学の大問題に入り込みます。たとえば、私はいまのところ「 脳死」ではありませんが、私が自分の手をつねっても皆さんには私が痛いと感じたか どうかは皆さんには分かりません。他人の痛みとかの感覚は決してそれ自体として感 じることはできませんし、自分自身の感覚が確実なのとは比べられません。
地球温暖化は何を行います
痛みという感覚は結局、相手がどういう反応や行動をしているか、つまり患者が嫌そうに苦しそうにしていることで分かるものです。相手がどういう反応をしたかとい うのは、相手が自分とどういう関係にあるかでも変わってきます。例えば、イヌを蹴ってもイヌ語が分かりませんから、我々にはイヌが痛いと感じているかどうかは分か らないですが、キャンキャンと逃げていけば、痛いだろう、と推測ができます。それ でも、蹴った人間の方は、野良イヌだとイヌの痛みを感じないかもしれないけれども 、自分の飼いイヌだとイヌの痛みを感じるかもしれない、ということです。このよう に、他者の痛みなどの感覚は相手との関係性で決まってくる側面があります。
「脳死」状態の患者の場合も、痛みを感じているかどうかはともかくとしても、つ ねったり首をひねったりすると、見ようによっては嫌そうに動いているように見えます。これはビデオでご覧頂いたとおりです。少なくとも面白そうに動いているように は見えません、どちらかと言うと「逃げて、嫌がって」いるような動きをすることが 知られています。脳死患者の3分の1〜3分の2に、こういうことが起きています。 この運動が逃げているように見えるのは、ある程度は当たり前のことで、こうした脊髄反射などの原始的な反射はもともと、自分の身体に害になる何かがやってきたとき に、自己防衛のために脳で判断する時間を節約して、それこそ反射的に逃げ出すという 仕組みだと考えられているからです。
このような状態が、何ヶ月、何年も続くにもかかわらず、この状態を「脳の重病」とは呼ばすに「脳死」と、あたかも死体のように扱う考え方が出てきたのは、何故な のでしょうか。
医学だけでは決められない「脳死」判定
脳死判定基準で「脳死」状態を診断することはたしかに医学的な診断をするという 点では意味があることでしょう。ただ、臓器移植法による法的脳死判定はまったく狭 い意味での医学的診断とは別次元の問題です。その人が死んだことになるか、死んだことにならないのかは、単なる医学的診断とは異なり、それが人の社会的運命を変え る大きな意味合いを持つようになるからです。厚労省の認定基準に従って、社会的に 「脳死」と認められたかどうかによって、生きた人間か死体かということになるので 、その後の扱い方が変わってきます。極端にいえば、主治医や判定医師の裁量で「厚労省の基準なんて面倒だ」と、いい加減な甘い判定基準で明らかに「脳死」状態とは違う状態でも「準脳死状態」とか「臨床的脳死状態」という曖昧な診断名を付けられてしまえば、ほんとうに必要な治療を手控えることにつながりかねません。「医学的に脳死判定基準がある」ということと「それが実際に臨床の現場で守られるかどうか」という点はまったく違いますし、「実際に守られたとしても、それが社会的にどう いう意味を持つか」、あるいは「社会的に『脳死』というものをどう扱うか」もまた別の問題です。
さて、「脳死」は日本では「全脳機能の不可逆的停止」つまり「全部の脳の働きが障害されて回復しない状態」と医学的には定義されています。これだけ聞くと、立派な科学的な定義のようにみえますが、言葉一つ一つを考えていくと、ある意味でいい加減なところがあります。特に問題になるところは、「不可逆的」という言葉で、「 脳死になったら全員が、そのまま必ず心停止になる」という意味です。さきほどの慢性的「脳死」のように、「脳死」判定から心臓死までの期間が10年以上におよぶこ とがあるのでしたら、実際上は不可逆的といってもまったく無意味です。「人間はやがては死ぬ」ということと同じことです。
次に問題になる点として、脳機能が戻るか戻らないか以前に「脳の働きとは何か。 何を脳機能とみなすか。」という考え方や価値観によって、「脳の機能が無くなった状態とは何か。」という基準も変わってくるという点があります。「脳の働きは何か。」は生物学や医学の学問で決まるのではなく、その社会の価値観で実は決まってい ます。ということがわかる理由は、「脳死」判定の基準が国によってバラバラだからです。少なくとも理念としての生物学や医学は、皮膚の色の違いや文化の違いがあっ たとしてもそう大きく、違っている訳ではありません。それなのに「脳死」が国によ って違うのは、その社会の価値観の中で脳の働きがどのよう考えられているか、この面から「脳死」を見ていかないと理解できないわけです。
互いにつじつまの合わない「脳死」説
脳の働き、機能とは何でしょうか。一番極端な定義では中医学(伝統的な中国の医学)は「頭の中には何かグチャグチャな灰色の物が入っていたから、これは泥の球= 泥球(でいきゅう)である。」と言われ、どうでもよいものであると思われていまし た。近代医学の解剖学では存在しないとされている経絡(けいらく=人体の循環・反応系統)や五焦(ごしょう=五臓六腑の一つだが今日の解剖学でのどの臓器に当たるかはわから ない)は大事だけれども、逆に脳は泥の塊だから働きなんて無いと考えられていまし た。そういう時代では「脳死」なんて考えが存在するはずもありません。
近代医学で受け入れられている脳機能にも色んな考え方があります。アメリカを中心とした一部では「脳機能とは実質的に大脳皮質の働きである。大脳皮質の働きが一番大事である理由は、ものを考えるとか自己意識とか記憶である」と信じられています。これも無茶苦茶な理屈で、大脳皮質だけ切り取ったらその脳に自己意識があるのかというと、SFではないので、それこそ泥の塊みたいになってしまいます。「脳の機能の中でも、考える働きや自己意識や記憶が大事である」と考えている人は、「脳 の不可逆的機能停止」と言うと「昏睡患者は脳死と同じなんだ」という考えになりかねません。いわゆる植物状態であっても、これはもう死体同然であるという方向につながります。もっと極端な考えになると「IQ50以下だったらイルカ以下だから人 間じゃない。イルカを助けたほうがいい。」という考えを持つ人々もいます。脳の機能が「考える働きである、大脳機能である」と一面的に考えると、こうして知的障害者や精神障害者の生存権を否定する方向へとつながっていくのです。
イギリスを中心とする一部の国々では、脳幹が中枢であると考えています。これは大脳とは全く異なる脳の真ん中あたりの部分です。同じ英語圏でもアメリカとイギリ スでこんなに違っています。血圧を維持したり呼吸をさせたりする生命維持機能の中心がこの脳幹にあるのですが、この脳幹の働きこそが脳の機能であるという考えの人たちがいるのです。「脳幹が大脳に信号を送って意識を醒まさせたり、生命を維持している」という考えです。この場合だと極端にいえば、「大脳が機能していても、脳 幹が働きを止めたら、生命を維持することができないから、もう『脳死』なんだ。」 という考え方になります。
また違う考え方では「知能検査は知能だけ、反射検査は反射だけというように、検査法によって機能の見え方がひとつひとつ違う。医学的に未知の部分が多いので、全脳細胞の壊死まで確認しなければいけない。脳に栄養や酸素を運ぶ血流がなくなっていることまで検査して脳死とする。」という考え方もあります。日本は比較的、この慎重な考え方に近い医師が多いでしょう。
以上のように時代別、国別の脳機能の定義の違いから見えてくる事は何でしょうか?それは、「脳死」とは脳機能がなくなった状態であるという点では「脳死」の定義 はだいたい一致していますが、いざ「脳機能とは何か」という点を細かく検討してい くとまったくつじつまが合わなくなってしまうと言うことです。さらに言えば、どんな働きを脳機能として考えるかと言うことと、その特定の脳機能がなくなった状態を 人間の死とみなすことが出来るかどうかはまた別問題です。
一番厳しい「脳死」定義=全脳細胞の壊死でも、脳機能以外の働きは正常に近いこともあります。男性であれば、精子を提供者すれば父親になれますし、女性であれば 出産することもできます。10数年、心停止せず生きる場合もあります。脳機能とされている機能が無くても、人間が社会で行っている活動が色々できるのです。それなのに何故、脳だけ「脳死」だけ、肝硬変の末期とか末期ガンのように、臨死状態や末期状態の一種とせずに、「死体として扱いましょう。」となったのか、という疑問が湧いてきます。もちろん臓器移植という技術が登場したというのが、非常に大きな理由です。
人工呼吸器が「脳死」を生み出したわけではない
さて、臓器移植に触れる前に、一般によく言われる「脳死は、人工呼吸器の開発によって出現した」という誤解を解いておく必要があります。歴史的な流れを見ると分かるのですが、人工呼吸器の原型である「鉄の肺」という装置は1928年に開発さ れ、人工呼吸器とほとんど同じように使われていました。第二次世界大戦頃には今日の人工呼吸器と同じ構造の装置が、大きな病院ではすでに使用されていました。ですから、人工呼吸器が開発されたのは70年以上前からということになります。これに 対して、今日でいう「脳死」という状態が生まれたのは1968年にハーバード大学で、「不可逆性昏睡」として定義されたのが最初です。これは南アフリカで初の心臓移植が行われた半年後でした。人工呼吸器で生き延びていた末期状態の脳障害患者は 第二次世界大戦頃からいたはずですが、その人々が臓器提供資源として利用する技術ができた時に「これは死体にしましょう。」と「脳死」概念が発明されたことが、この歴史的経過にはあらわれています。
これまで説明しましたように、アメリカの「大脳皮質死」やイギリスを中心とする 「脳幹死」さらに「全脳細胞死」と、色んな「脳死」定義や概念があります。こんどは、その違いではなく、共通点の方に目を向けてみましょう。定義はバラバラですが 、価値観という面では、「『脳死』を人間の死の一種として認めることが必要だ」と いう点では、どれも共通しています。つまり、その患者さんを診断して治療するため に役立つ概念ではなく、「脳死」という考え方を持ち込むことで、その人を権利のある生きた人間、動きに何か意味があるかも知れない、痛みを感じるかも知れない人間ではなくて、「もはや生きた人間ではないが、有効利用することが必要な資源・死体 ・モノとして考える」ための手段となる概念なのです。
手段としての「脳死」
「脳死」体と呼ぶことによって一部の末期患者(の臓器・組織を)を有効利用しよ うという考えからは次のことが予測できます。つまり「ある種の末期患者全般が臓器提供できる。その身体を利用できる。」と見なされた場合には、脳機能障害の程度とは関係なく「脳死」状態と同様に扱われることがあるのではないでしょうか。実際に 、「脳死」判定の厳しい基準を満たさなくても「臨床的脳死状態に近い状態になっているから、脳以外の他の臓器を守るために(救命には有害な)処置を行って、身体を水浸し状態にしてもいい。」という方向性があらわれています。脳障害患者への救命努力がなおざりにされて、判断基準がどんどん甘く、前倒しになっていく傾向が現れ ています。
今日は、脳機能についてのお話を主としてきたのですが、結局、現実に行われている ことは、残念ながら、脳の機能を見て「脳死」を決めるのではなく、臓器提供のため 「人体を有効利用」するために「脳死」を決めるということなのです。
アメリカでは臓器提供を自発的に同意した脳死状態になっていない臨死患者に対して、生前から本人に対する治療ではなく臓器を保存する処置を行いつつ「死ぬ」のを待って臓器摘出をするピッツバーグプロトコルが行われています。日本でもほぼ同様のことが一部で行われているとも言われます。結局、「脳死」判定は儀式みたいなものに過ぎないのでしょうか。これまでは「その人の脳機能がどれだけ残っているかを 調べよう」という「脳死」議論が行われてきたのですが、それ以前の問題として、「臓器提供に持ってゆく」ために「脳死」概念が登場したという「脳死」問題の本質が はっきりして来たのが今の状況なのです。
臓器移植の思想的背景にある人間機械論
最後になりますが、臓器移植の思想的背景に関して少し触れておきたいと思います 。臓器移植の対象になる病気にかかる人は、すべての病人の数から見れば、ほんの一握りです。「心臓病の人」といっても、高血圧の人から不整脈の人、心筋梗塞の人な ど、重い病気から軽いものまでたくさんあります。そのなかで心臓移植の対象になる 人はごく一部であるということはすぐにわかることです。これほど現実に行われる数が少ない稀な病気とその治療法が、人々の注目を集めているのかということを考えると「脳死」を生み出した今の医学思想の土壌や背景が見えてきます。
心臓移植の国内適応患者数は、ざっとした計算でも数万人とされています。脳死判定され臓器提供する側は数千人〜数百人と考えられていますので、臓器移植は、通常の医療行為として「希望すればできる」ようにはとうていなりません。ですから、臓器不足のために、「臨死患者であっても臓器提供させてしまえ」とか「よその貧しい国に行って買ってこよう」という問題が出てくることは誰でも冷静に考えればわかることです。
そういう問題があるにもかかわらず臓器移植が「医学の進歩の象徴」のように非常にマスメディア受けするのは、人間を機械のようにあつかってその部品を取り替えることができるという近代医学の「人間機械論」という考え方があります。コンピュー タでいうCPU(中央演算装置)に当たる脳がだめになったら機械ごと取り替えなき ゃだめだけれども、周辺機器だったら取り替えればいいと言うことです。このように 、人間を機械として見る考え方だと、「脳死」も臓器移植も非常に説明しやすくなる 。ただし、覚えておかないといけない点は、説明しやすいからといってもそういう機械という比喩が正確な真実とは限らないという点です。でも、「脳死」臓器移植は、 実際に行われている数としてはものすごく少ないけれども、部品を交換する発想からすると理屈として分かり易いからマスメディアで脚光を浴びるという面があると思い ます。いろんな病気や治療法がある中で、医療全体における比重と似合わないほどの脚光を移植医療が集めると、(医療と社会の)バランスが失われた状態になってきて いるのが今の状態ではないでしょうか。
米国は「臓器移植先進国」です。しかし、臓器移植には予算をつぎ込んでいても、国民全体の医療保険が存在せず、貧しい人は最低限の医療すら受けることがままならない状態です。そのために、医療費は巨大な予 算を使っていても、全般的な健康水準が改善されるのではなく、特定の病気にだけ研究が集中して非常にいびつになっています。繰り返しますが、「人間機械論」でもどんな考え方でも、一つの考え方だけで医学をすすめていくことによって、今、問題がでてきているのです。
話が色々な方向に広がってしまいましたが、ご静聴ありがとうございました。
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